僕はアイレップ(だけじゃないけど)に育てられた
まずはじめに、この記事を書こうと思わせてくれたアイレップ高山さんのブログに最大のリスペクトを。
僕はアイレップという会社で、人間的に成長することができました。
少し昔話を。
僕は高校卒業時の受験で願書を出し忘れ、現役なのに記念受験というミラクルプレーをしたり、
その後、両親に予備校のお金を出してもらいながら一浪した受験を、ボイコットするというミラクルプレーをもう一回やったりと、
いわゆる一般的な単語で言うク ズ 野 郎でした。
この時18歳。
そのテストを受ける日に、御茶ノ水の三省堂さんの中で天野喜孝原画展がやっていたのでふらーっと寄って、フロムAを覗きこんでいました。
この一浪は個人的には非常にいい経験で。
というのも、人生においてこれだけ「無駄であった」と言える時間はなく、二度とこういう生き方はしないと心に誓ったことでもありました。
その後ゲーム世代でもあるので、ゲームからパソコンに興味がいくのは自然な流れでした。
パソコン関係の何かしらないかとフロムAをめくり九十九電機さんの店舗スタッフに応募しました。
この時はひたすらに働きたかった。
1年という時間、予備校のお金、いろいろなものを棒に振ってしまったので、その借金を返したかった。
パソコン屋の店員として勤しんでいるときに、趣味でHTMLを作っていました。
この時19歳。
現社長(というか中学からの同級なのですが)から「お前、ウェブ作れたよね。一緒に働かない?」と声掛けがあって、某会社にてウェブ屋として働き始めました。
転職を決意した動機としては、
・もてたい(ウェブとかいうとかっこいいじゃん程度のレベル)
・パソコン屋の仲の良かったメンバーがみんな転職していった
という非常に邪な理由でした。大義なんてないw
そんな転職先ですが、ウェブ屋といってもインフラとかPHPで、とかではなくて、ちょっとパソコンに詳しい兄ちゃんレベル。
イラストレーター使ってチラシやポップ作ったり、HTMLを作ったり程度でした。
その某会社にて半年ぐらいたったぐらいで、社長の前職の先輩から「お前(社長のこと)、面白いから会社立てて自分で仕事してみろよ、投資してやるよ」と最初の資本金を援助してもらえる話がありました。
僕と社長は「捨てるものも無いし、やってみようか」という軽いノリで起業。
年齢変わらず19歳。
当時は1円起業とかがなかったので有限会社で300万、株式会社1000万の資本金がいる時代。
低い方の300万ですら、僕らなんかでは用意できるはずもなく、300万という数字が途方すぎて、僕はその価値がよくわかっていなかったと思います。
それを出してくれるっつーので本当にラッキーというか。
ウェブ制作会社として起業したのは同じく19歳の時。
しかしこの起業は、唯々、ひたすらに辛かった。
精神的に完全に病んでいましたね。
原因は明確で
・仕事がない
・仕事があっても来月給料がないかもしれないと危機感
・仕事って何?という哲学ちっくな自己疑問
・成功のイメージがない
・ホームシック感。
など。明日食う米がないかもしれない ということにおびえてました。
逃げたいという気持ちがどんどん強くなって完全に欝ってやつになっていました。
そりゃ高卒でバイトしかしたことないようなクソガキが会社作っても力量が足らなすぎ。そんな世の中甘くない。
俺、もう家業を継ぐよ、と家業をナメた発言も平気で飛び出す始末で、周りの人たちに「冷静になれ」「本当にそれでいいのか?」「もう少し頑張ってみようよ」など慰めや応援をもらっても、無碍にしようとしていました。
そんなのが続けばメンタルの強い我が社長も「さすがに無理だから一旦解散しないか?」とギブ宣言。
社長が「俺はもっと出来るやつとシゴトがしたい」というイライラもあって若干19歳×2、21歳の計3人で作った会社は一旦終了。
休眠という処理に至りました。法人って眠らせることもできるんだぜってのをここで知りましたですねw
きちんと修行してまた一緒に仕事しよう!だから互いに修行できるようなところへ就職しようぜと相成りました。
僕の人生において、この時以上にどん底だった日はないと思います。
後にも先にもこれほど精神的に辛かった日はなかったです。
我が社長は、アイレップさんに起業志願者募集の採用で入社しました。僕ともう一人は、修行のための職探し。
ここで転機。
アイレップに入った我が社長は、休眠前に自分らが作ったウェブサイトがSEOできているということに気づきました。
僕は職探しも中途半端だったため、個人事業主を設立していました。
そんな個人事業主ビズの最初の仕事は、アイレップさん自体のウェブサイトを改修してお問合せ数を伸ばすことでした。
そのためにウェブサイトのユーザビリティを改善しキーワード記述を改修しSEOを施しました。
結果、「広告代理店」での上位表示など、今でも語れるようないい実績を作れたと思いますw
目的であったお問合せ数も、月10件あったかないか程度から月100件超えぐらいまでの躍進をしました。自信がついた瞬間だったと思います。
その後SEOのサービスをアイレップさんから受注してサービス提供をしていました。
クライアントさんのウェブサイトのデータを預かって施工して納品するというスタイル。
アイレップ(というかSEMリサーチ)の渡辺さんが、まだイープロモート(っていう社名だったと思う)にいらっしゃった頃。
そんなSOHOスタイルから半年後、アイレップさんに入社。2月、3月ぐらいだったかな。このとき20歳だったと思います。
アイレップに入ったときに、最もプレッシャーだったのが給与。
入ったあとに風の噂で知ることになるんですが、
僕は一介のSEOエンジニア。とある先輩社員は営業統括&経理・総務のリーダー。
給与は多分入った当時は僕と同じか、むしろ僕の方が上だった気がします。
そりゃもう半端ないプレッシャーですよ。
“結果をなんとか出さなければいけない”。
僕なんぞよりもよっぽど会社に貢献してる人よりも多くの給与をもらっているのだとしたらと思うと本当に気が気でなかった。
この経験は僕のビジネスマンのスキルの中でも何事にも代えがたいです。
周りからの期待、認めてもらうこと、失望されないように努力すること、そういった健全なプレッシャーが、僕を成長させました。
本当に夜な夜なまで働いていました。
特にイヤということはなく、本当に結果を出さねばという一心でした。
雇って下さった高山さんに結果を出さなければいけないし、必要だねと言ってもらえるように、また給与高いんだし、”努力する”のが当たり前でした。
「今週3時間しか寝てないわー、超寝てないわー」という時が多くありましたが、それがイヤだったことは一度もありません。
ネガティブな見方をすれば、仕事時間を長くしなければいけないのは自分の実力が足りないせいですし、
ポジティブなところでは、その仕事が楽しくてやりがいがあってやりたくてやりたくてしょうがなかったからあっという間に時間が立ってしまっただけのことでした。
身体的には負担だらけだったと思うけど、精神的には成長する正しいサイクルに乗っていたんだと思います。
(僕だけの力ではなくて本当に周りに助けてもらってばかりです)
元々、僕は引きこもり体質で根暗で地球がなくなればいいのにとすごく不幸を願うようなゲスい人間でした。
今は結婚もしましたし、子供もいますし、地球が終わったら困ります。
やり残してることいっぱいあるし、やりたいこといっぱいあるし、人の不幸を喜ぶぐらいなら、大小問わず自分が幸せになったほうがいいと思うようになりました。
人生のどん底だった時に助けてくれた友達、
起業時に資金援助していただいた人生の先輩、
刺激的だったアイレップの先輩社員、
一緒に起業した友達、
毎年初詣で変わらず接してくれる友達、
そんな会社に居て一緒に働いてくれる人、
何度も自分のわがままで傷つけたけど我慢してくれた嫁さん、
笑顔をくれるだけで本当に生きててよかったと思わせてくれる子供達、
予備校代や受験費用・・・ごめんよ両親。
いろんな人の助けがあって今の僕がある。すべての人に感謝します。
重ねてこの記事を書こうと思わせてくれた、アイレップの高山さんに最大のリスペクトを。
本当に成長させてくださいまして、ありがとうございました。